その拳は、嵐に向けられたものではなくただ、溢れ出す疑問を押さえる為に無意識に握
ったのだろう。
「あんな単純な奴はそうそういないがあいつにも見習える事もあるんだ。楽観的に見るの
も然り。お前ならなおさらだ。昔のお前に戻れって言ってんじゃなくて、もう少し軽く見
たらどうなんだ?」
 そうだなと少し間をおいて月夜はつぶやいた。拳を握ったままだったがいくらかその表
情が晴れたので嵐は部屋を出て行った。
「確かに、俺はまだ弱い。並みの妖を祓えても、あれは並みの妖以上だろう。……まだ、
力が足りない」
 そう独語するとベッドに寝転がって頭の下で腕を組み膝を立てて足を組み真っ白い天井
を見上げた。
「力がなりないか」
 溜め息を吐くと目蓋を閉じた。まだ、月夜の身には瘴気が荒れ狂っている。四日五日後
に抜けるかもしれないと言うくらいのものだ。
「薬師の血を引いていてよかったと思うのはこういう時だけだもんな」
 そう呟くと彼の息が寝息に変わった。何もかけずにただ眠った。いつの間にか組んでい
た足は解かれ左側を下にして横向きに寝ていた。
 静かな寝息が部屋に響く。だが、その寝息も長くは続かなかった。
 いきなり、魘され始めたのだ。熱があるわけではない。ただ、父親が殺されてから魘さ
れるのだ。
 この五年間、安眠と言う言葉を自分に当てはめた事はなかった。野外活動でも修学旅行
でも魘されて一回二回起こされた事がある。魘されて魘されて寝不足が常になった。
 はっと起きた。額に暖かい手が触れた気がした。驚いて辺りを見回すと夕香がそこにい
た。
「お前、何、人の部屋に」
「教官が呼んでたから来ただけよ。すぐ出て行きます」
 とげとげしい声で言うと夕香はすぐに出て行ってしまった。それをみて月夜は浅く息を
吐いて起き上がると教官の元にむかった。
「教官」
「藺藤か。入れ」
 扉の向こうでそう言うのを待ってから教官の執務室に入った。相変わらず必要最低限の
書棚と重々しい年季が入った木の机に向かって教官は座っていた。
「御用は?」
「任務の話だ。スケジュール管理はお前が得意そうだからな」
「それはそうですけど? どれくらい先の話で?」
「六月の晦日の日、夏越の祓えがある。それに出て欲しいのだ」
 手を止めて教官は言った。月夜は夏越の祓えに関しての知識を引きずり出すと疑問が生
じた。だが、その疑問を口にする前に教官は任務内容を話した。
「舞い手と吹き手が足りないそうだ。稲荷様だからな、狐だったらいいかと」
「そうですか。あいつが舞い手で俺が」
「ああ。龍笛、出来るか?」
「和楽器なら何でも出来ますが?」
 それなら心配要らないなと一つの紙を月夜に投げ渡した。見てみるとそれは楽譜だった。
「その日までに完璧にしろと?」
「ああ。そのとおりだ。話が早くて助かる」
 その言葉になんとなく思い浮かんでしまったのは嵐と莉那の二人だった。あの二人に比
べたら自分たちのほうが、話が早いだろうと心から思ってしまった。
「日向に伝えておけ」
「はい」
 一礼すると扉の外に嵐が立っていた。目で何をしていると、問うと呼び出されたと口ぱ
くで言われた。ばーかと目で返すと肩を竦められた。
「失礼します」
 嵐の声が遠くなる。扉が閉められる音がやけに小さく聞こえて今まさに気絶しつつある
のに気付いた。
 膝が地に付き上体が廊下に倒れこむと思ったとき、そっと自分の体を受け止める細い腕
を感じた。そしてハッと起きると自分の部屋のソファーに寝かされていた。体の上には毛
布があり、キッチンのほうから夕香が出てきた。
「やっと起きた? 病み上がりなんだから動き回るのはよしなって」
 呆れた声の中に心配していた疲れが混じっているのを感じて月夜はため息をついた。返
す言葉が見つからずに項垂れた。
「面目無い」
「別に責めてる訳じゃないから。ちょっと待ってて」
 そう言うと夕香はキッチンに戻りソファーの前にあったシンプルなガラスの机に鍋敷き
と小さな鍋を置いた。蓋をあけると雑炊が入っていた。目を丸くすると夕香はやや照れた
ようにそっぽを向いた。
「勝手に使って悪いって分かってるけど、これ」
 箸と取り皿、お玉を机に置いて項垂れた。胡桃色の髪が肩から女性的な曲線を持った胸
へと降りた。その髪の隙間から覗ける顔は赤く染まっているように見えた。
 月夜はお玉でそれを取り皿に取り一口口をつけた。
 温かい。その温かさが体に染み渡るようだ。我知らず吐息を漏らして一口一口丁寧に食
べた。その様子を夕香は見ていたが目を逸らしてキッチンのほうに向かった。水が流れる
音が聞こえて水仕事やらせたなと思った。
 食べ終わると体のダルさが幾分取れた。体を起こしてちゃんと座ると鍋の蓋を乗せてキ
ッチンのほうに持っていった。そして鍋を置くと夕香が持っていたスポンジを取り上げる
と黙々と夕香の残りをやり始めた。そして片付け終わると夕香の方を見た。
 夕香は幾分ムッとした顔をしていた。溜め息をつくと目でソファを示した。
「悪かったな、ひ弱で」
 言うと月夜は寝室に戻り溜め息をついた。一人残った夕香は幾分後悔した顔をして部屋
に戻った。
 それを感じて月夜はベッドに倒れこんだ。そして何もかけずにベッドに身を預けた。寝
ていたのにすぐに睡魔が襲った。また、眠り込んでしまった。
 そして月夜が完全に復活したのは三日後のことだった。
 


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